世界のどこに住んでいてもいいし、何をしてもいいのです。人の褒められるようなことをやらなくてもいいのです。自分の幸せを追いかけているうちに、きっと何かをやりたくなります。
あなたがルールを決めて、そしてあなたが見つければいいのですから、どんな人にも幸せを見つけることは可能です。(P.203 L.9~P.204 L.5)
『人と接触しましょう!』
世界のどこに住んでいてもいいし、何をしてもいいのです。人の褒められるようなことをやらなくてもいいのです。自分の幸せを追いかけているうちに、きっと何かをやりたくなります。
あなたがルールを決めて、そしてあなたが見つければいいのですから、どんな人にも幸せを見つけることは可能です。(P.203 L.9~P.204 L.5)
『人と接触しましょう!』
あなたが成長したら、きっとそれに見合うものがやってきます。そのためにも、何かにしがみつきそうになったら、大きく深呼吸をして、硬くなった手を開きましょう。(P.202 L.13~L.14)
『前を向きましょう!』

ものの見方を変えること
感じ方を変えること
行動を変えること
(P.199 L.5~L.6)
『自分の足で歩く!』
あなたが発信するものが、将来あなたが受け取るものを決めます。なぜなら、あなたが出しているものを受信した人が、引き寄せられるからです。
笑顔で挨拶をしたら、向こうも笑顔で返してくれるのは、誰でもイメージできるでしょう。(P.197 L10~P.198 L3)
笑顔で『ありがとう!』
【私の人生の岐路⑦】
☆高校進学
☆大学進学
☆就職
☆結婚
☆病気
☆死別

ニューヨーク語学学校でのクラスメイト
☆還暦(新たな出会い)
日本で暮らしても辛い過去がよみがえり、生きる方向を失っていた。2013年9月(3週間)、自分なりに方向性を見つけようとアメリカはニューヨークに行った。次回は3ヶ月ニューヨークに滞在しようと計画を練っていた。何故ニューヨークなのか?人種のるつぼと云われ、多種多様な人々が暮らしている。いろんな価値観がある。新しい自分を見つけるには、もってこいの場所だと思った。

中学の時から憧れていたギター
その10月にひょんな事から神戸のライブハウスに行った。そのライブハウスに中学の時から憧れていた、ギターが20本近く展示していた。ビンテージものだと思っていた。店長に聞くと、今も手作りで一本一本制作されていることがわかった。そのギターを使って、一世を風靡したアメリカのバンドのコピーバンドが出演してることもわかった。

お世話になっている方(ギタリスト)と一世を風靡した歌手をゲストで迎え演奏会
そのコピーバンドの演奏会に行った。バンドリーダーから『お宅もギターを弾きますか。一緒に遊びませんか』と声が掛かった。60歳になるオッサンを捕まえて『一緒に遊びませんか』とは、面白い方だ。と思い、そのバンドが演奏しているところへ、後日、追っかけするように出かけていった。

初めての大舞台
それから5年の月日が経った。今では、その方のお世話でバンド活動をさせていただいている。
人生の目的が知らぬ間にできた。これからも人との出会いを大切にしたい。

小さな街での演奏会
素晴らしい仲間との出会い
これからも大切にしていきたい
小さな町での演奏会
【私の人生の岐路⑥】
☆高校進学
☆大学進学
☆就職
☆結婚
☆病気
☆死別
2007年8月に亡き妻は胃がんと診断され、なおかつ、先5年の生存率が10%と宣告された。私は2011年3月をもって36年間勤めた職場を、亡き妻との生活を優先し、定年を待たずして2年早く退職した。
2012年12月に妻は私の横で、長い眠りについた。何もかも失った感じだったが、1年と9ヶ月の亡き妻との24時間一緒に寄り添うことができたのは、とても良かった。仕事を続けていれば、時には遅くなることもあっただろうし、亡き妻の一人の時間が多く不安な時を過ごしたのでないかと思う。そう思うと、仕事を辞め亡き妻との時間を過ごすことができる環境を持てたことに感謝する。
☆還暦(新たな出会い)
【私の人生の岐路⑤】
☆高校進学
☆大学進学
☆就職
☆結婚
☆病気
亡き妻、2007年8月に胃がんと診断される。「寝耳に水」とはこの事である。胃の全摘手術をし、生活するのに食事などで苦労を強いられた。翌年、2008年9月に私が大腸がんと診断される。人工肛門となり身体障害者4級の判定であった。排泄面で大変だが健常者と変わらない生活ができていた。
今までいろんな事を経験していたが、こんなに深く心に衝撃が走ったのは生まれて初めてのことである。自分のことより亡き妻のことが日々心配でならなかった。自分の時も告知されたときは、頭の中が真っ白になったが、亡き妻の時ほどではなかった。その違いは死の宣告である。亡き妻の場合は客観的な資料を見せられて、生存率10%と宣告された。私の場合はなかった。
☆死別
☆還暦(新たな出会い)
【私の人生の岐路④】
☆高校進学
☆大学進学
☆就職
☆結婚
私のまわりの環境が結婚を早めた。
この時代、同棲が流行った。と云うより友達3組がそうであったので、そう思ったかもしれない。内一組が、大学4年で子どもが一人いた。その友達は卒業と同時に離婚し新たな家庭を築いた。また違う友達は、卒業を待たずして大学4年で結婚した。
私は大学一年から付き合っていた彼女と、就職2年目で正式採用された5月に23歳で結婚した。25歳で子どもが二人いた。憧れた職に就けたので、仕事中心で家庭を顧みなかった。
☆病気
☆死別
☆還暦(新たな出会い)
【私の人生の岐路③】
☆高校進学
☆大学進学
☆就職
大学卒業後、母校に挨拶に行った。何かよい情報はないかと、足繁く通った。
4年次の年明けには就職(機械工具問屋の会社)が決まっていた。これも、1973年から1977年まで関西テレビの企画・制作によりフジテレビ系列で放送されたテレビドラマ『どてらい男(やつ)』で影響された。ドラマの話は、大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った西郷輝彦扮する山下猛造が、商人として才覚を現し立身出世を果たしてゆく物語である。何かすごくかっこよく見え、機械道具は好きで憧れていた職場であった。
しかし、3月中頃過ぎまで、アルバイトをしていた。会社からは出勤の依頼があったが、無理をいって伸ばしていた。もう、『何日には必ず出勤してください』といわれた。それと同時に母校から『隣の学校が空いたから面接に行ってこい』と電話があった。いっちょぉらいのスーツを着て、翌日に面接を上に行った。知人からの紹介ということもあって即採用された。
もちろん、就職が決まっていた会社には、菓子折を持って挨拶に行った。人事部長は快く承諾してくれた。
(『一張羅』は、「いっちょぉら」・「いっちょぉらい」と発音し、どちらも使っていた。意味は、「ただ一つの物・よそ行きの服」ということだ。関西弁?神戸弁?)
☆結婚
☆病気
☆死別
☆還暦(新たな出会い)
私は父親の存在を知らない。女性がそれなりの時期に来ると子を授かると小学生まで思っていた。事実、私に父親ができたのが小学校2年生の時だった。
『何であんな大きな鉄が海に浮かぶんだ、空を飛ぶんだ』といつも言ってる母だった。そんな母親だが、『自分の命をかけてでも子を育てた』。そんな母の意見は必ず聞き、何を子に教えてるのかしっかり言葉の裏に隠れてる意味を理解すること。これは私が結婚して、妻が子を育てる姿を見て、子が大きくなったときに感じた。
【私の人生の岐路②】
☆高校進学
兵庫県方式の入試ではなかったら・・・と思ったこともあったが。
報徳学園を選べる環境下にあったことに感謝する。
☆大学進学
高校のクラブ活動で三カ年間団体優勝をすることができた。恵まれた環境であった。そのお陰で大学を数校選ぶことができた。選択は安易に私にとって一番条件の良い大学を選んだ。一年間寮生活であったが苦になることはなく、仲間がたくさんできたのでよかった。大学二年目の生活は、自分で行動を起こし進まなければならなかった。ただ、自分一人で行動することはあまりなかった。四六時中誰かと一緒だった。
大学4年生(4年目)でアルバイトが中心の生活になっていた。夏休み短期水泳教室での子どもとの出会いで、自分の方向がはっきりと見えた。(2月28日の投稿)
☆就職
☆結婚
☆病気
☆死別
☆還暦(新たな出会い)