久しぶりの更新です。
嫁は適度に孫を連れてきてくれる。良いものである。先日の日曜日に「結婚式の帰りです」と言って夫婦で寄ってくれた。息子は自動車の運転、孫の面倒と少々疲れ気味でした。式場での美味しいお料理も、食事するのも大変だったようである。今日の孫は我が家ではいつも通りであるが、結婚式場では大変愚図ったようである。
ご飯を炊いていたが、「夕ご飯は何か頼もうか?いつもピザだが、良いですか?」と言ってピザを頼んだ。
☆我が道を行く☆
私たちはどうしても先人が敷いた道を行きたがる。私も例外ではない。その道を辿って現在がある。先日、私が就職をする前に繋がりを持ったもの同士3人が集まった。現役の社会人の時は、その3人が揃って集まった記憶は無い。人間の繋がりは不思議なものなのか。いやいや、小さなコミュニティーの中で動いているのだろうか。
我が子は自分が正しいと思う道を歩んでいる。素晴らしいことである。私にはできないことである。
孫は未だ言葉は話せないが、我が少し出てきたように思う。嫁は少し困っている様子であた。息子は『今は、それで良いのでは』である。よかった。我が子も悩んでいたら困ったが、答えを持っているようだったので安心した。
(2)人間のもつさまざまな欲求
生まれたばかりの赤ちゃんが母乳をほしがり,飲んで満足すると眠るように,人間には生まれつきもっている欲求がある。そうした欲求を満たそうとして行動することが,生きるということの基本になっているといえる。逆にいえば,欲求がなければ人間は生きていくことができないということになる。人間にとって,なくてはならないこうした欲求のことを一次的欲求という。
一方,私たちが成長し社会生活をしていくなかで,あらわれてくる欲求もある。たとえば,信頼できる友だちがほしいなどの人間関係の欲求,また人に認められたいとか,社会のなかで活動したいという社会的欲求,さらに自分にしかできないことを成しとげたいなどの自我欲求もある。これらの欲求のことを二次的欲求という。
このように,人間はさまざまな欲求をもっている。(大修館保健体育教科書P.133~134から抜粋)
最近、孫がお店(レストラン等)に行ったとき愚図るようになってきた。よく見てみると自分で好きな場所に移動したいのであって、椅子にじっとしていることが無理なのである。昨日、嫁と一緒に近所の盆踊りに連れて行った。自分で好きなところに行って楽しんでいる。じぃじは汗だくであったが素晴らしい笑顔をしていた。
1歳2ヶ月であるが、自我の芽生えであろう。これからもっと顕著に出るだろう。
左利き?好きな様にさせては!
Facebookが一般化してどの位経つのだろうか? 教え子に『〇〇先生もFacebookやってるよ。おのちゃんもやりよ!』と教えてもらって始めた。教え子の成長が垣間見ることが出来る。昨日も『僕、子どもが生まれました』とメッセージがあった。二人目の孫が生まれた月と同じだ。とても便利なツールだ。今では一つのコミュニケーション・ツールになっている。
私は親として子どもに一生懸命接した(どこかで記した様な気がするが、子の幼児期は母子家庭と同じだった。反省?難しい。憧れの職業に就き、仕事に夢中になっていたことは事実である)。ある時、息子に『家に帰っても先生面するな!』と言われたことがあった。ショックだった。でも、今思うとその通りだと思う。気が付かないうちに職業柄そうなってしまったのだろう。今の気持ちは『老いては子に従え』だ。息子に子どもが出来、すごく成長したなと感じている。
お互い褒めることから、やらなくてはならない。思えば子に褒めたことがあっただろうか?記憶にない。これまた反省!息子の嫁も、孫も褒めることから始める。そうだ!父親として社会人としても、よく頑張ってる息子も褒めなくては!今更、ちょっと照れ臭いが、機会を見つけてそうしよう。
2013年10月に、東京で活動している一世を風靡した有名バンドが某カフェ(ライブハウス)に来ることになり、友達と行くことになった。そのカフェに、私が憧れていたギターが壁一面に陳列してあった。後日、とても気になっていたので店長に話を聞くことになった。今も手作りでコツコツと伝統を受け継いで製作していることが分かった。
そのカフェにちょこちょことお邪魔することになり、親父バンドの方にお世話になる様になった。そして、その年の暮れにギターを買って、練習する様になった。
そのバンドで世話になってる方に、いつも「いいですね! 上手になりましたね!」と褒められてばかり。青春時代に出来なかった事を “ じぃじ ” になってから、させて戴いている。新米で下手にもかかわらず、サポートしてくれるバンドの皆さんに感謝する。
表紙に『子育てハッピーアドバイス\ようこそ/初孫の巻 孫が幸せに育つため』と書いてあるが、私は『三世代家族が幸せに暮らすため』のアドバイス本だと解釈した。ものの価値観も時代とともに大きく変わったと言われるが、いつの時代をとってもそれは一緒のこと。孫が子を持つ時代になると、また価値観は大きく変わっていることだろう。息子も同じように『俺の時代はこうだったな』とぼやくだろう。お互いの立場・人格を認め、何事も褒めることから始めることだ。
家族でも立場によって、同じものを見ても、同じように見えているとは限らない。物体としての形状は変わらないが、そこから見えてくるものは自分の心にあるものが写り見えてくる。