「思い」を持たずに応援する(P.51)

「子供が自分で伸びていく力、ただ見守る」(P.51 L.8)

「そのまま認めて応援支援をしていく」(P.51 L.11)

子供は自分の描いたシナリオ通りに伸びていこうとする、それを親は見守るだけ、応援支援をするだけ。(P.53 L10)

親は思いが強ければ強いほど、子供の邪魔をしている(P.54 L6)

子供の生きがい(P.30)

「子供は、ほめられたくて生きている」(P.30 L.6)
子供だけでなく、大人でもほめられると気をよくする。ただ、大人の世界ではほめることが優先され、本質的なことが忘れられている事が多々ある。他人からほめられても鵜呑みすることはできない。やはり自分で客観的に、その、ほめられてることがどういう事なのか、判断できる力は必要である。その結果、ほめた相手が「よくやるね。適当にほめたら、彼は本当に良いものを創ったね。脱帽するよ!」と言ってもらえるように成りたいものである。

 

 

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3月下旬から投稿を疎かにしていた。海外旅行で投稿する時間がないといい投稿しなかった。昔(現職時代)を思い出した。通常の仕事にプラスして、大きな仕事を任され、通常の仕事を後伸ばしにしていた時期があった。その時は『仕方ないでしょう』と思っていたが、その仕事をやり遂げた後に振り返ってみると『ただ、自分に処理能力が無かっただけと気が付いた』。ネット環境が整ってる現在、よほどへんぴなとこにいかない限り投稿はできる。結果、4月一日と言って4月1日に投稿したが、継続投稿ができず、今日に成ってしまった。自分が決めた『継続投稿』これが大切だ!

モロッコ

アフリカ大陸の北西に位置するモロッコ。 四方を異なる文化に囲まれ、現在までに独自の文化を確立させました。

近年、日本でもタジン鍋やアルガンオイルなどの産地として名を知られ、訪れる人も増えています。

ヨーロッパ、アフリカ、中近東の文化が入り混じり、その多彩さに目移りするばかりの魅惑の国。

異国情緒たっぷりで更には街中に猫、猫、猫!
(出典:TABI CHANNEL)
(画像Copyright:小野原)

 

初めてこの国を訪れたら、全く違う感覚を持つだろう。しかし、私は「とても温厚な人々が多い国」と感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マラケシュの中心にある、ジャマ・エル・フナ広場は緊張するが、その他の観光はとてものんびりとできた。

 

 

 

旅行を終えいつも思うことだが、日本の良さが更に身にしみて感じた。今後も穏やかに目くじら立てずにのんびりと生活を楽しむようにする。

心の焦り

今日も楽しく一日が終わった。
しかし、今日は反省することがあった。

夕方から車に乗って出かけた。
いつものライブハウスである。
一通り皆さんと順番に演奏を楽しんだ。

帰路、友人を自宅まで送り、そこからの帰り道の出来事である。国道2号線に入り東に向かって走行中、私の車の後ろに「先導車」と印した車に追いつかれ追い越された。その車は追い越す前に、私の車の後にしっかり付けあおられる感じで少し付かれた。感じが悪い。しばらくすると大型車が先導車と同じように、「そこどけ!特殊大型が通る!」と言わんばかりに私の車に近づき追い越そうとした。そのまま追い越されたら問題ないのだが、私は追い越されないように左車線を2~3m先を併走した。スピードメーターは80Kmを指している。

一つ間違えれば大惨事になるとこである。心にちょっとした余裕があれば起きないことなのに、心の焦りが出たのか。『バカなこと未だにしている』と反省し自宅に帰った。その心の焦りとは、今私が一番ほしい『心の安らぎ』である。

『心の安らぎ』とは・・・

ものの見方を変える(P.195)

【私の人生の岐路⑦】

☆高校進学

☆大学進学

☆就職

☆結婚

☆病気

☆死別

ニューヨーク語学学校でのクラスメイト

ニューヨーク語学学校でのクラスメイト

☆還暦(新たな出会い)
日本で暮らしても辛い過去がよみがえり、生きる方向を失っていた。2013年9月(3週間)、自分なりに方向性を見つけようとアメリカはニューヨークに行った。次回は3ヶ月ニューヨークに滞在しようと計画を練っていた。何故ニューヨークなのか?人種のるつぼと云われ、多種多様な人々が暮らしている。いろんな価値観がある。新しい自分を見つけるには、もってこいの場所だと思った。

中学の時から憧れていたギター

中学の時から憧れていたギター

その10月にひょんな事から神戸のライブハウスに行った。そのライブハウスに中学の時から憧れていた、ギターが20本近く展示していた。ビンテージものだと思っていた。店長に聞くと、今も手作りで一本一本制作されていることがわかった。そのギターを使って、一世を風靡したアメリカのバンドのコピーバンドが出演してることもわかった。

 

お世話になっている方(ギタリスト)と一世を風靡した歌手をゲストで迎え演奏会

そのコピーバンドの演奏会に行った。バンドリーダーから『お宅もギターを弾きますか。一緒に遊びませんか』と声が掛かった。60歳になるオッサンを捕まえて『一緒に遊びませんか』とは、面白い方だ。と思い、そのバンドが演奏しているところへ、後日、追っかけするように出かけていった。

 

 

初めての大舞台

初めての大舞台

それから5年の月日が経った。今では、その方のお世話でバンド活動をさせていただいている。

人生の目的が知らぬ間にできた。これからも人との出会いを大切にしたい。

 

 

 

小さな街での演奏会

 

素晴らしい仲間との出会い

これからも大切にしていきたい

小さな町での演奏会

人生の仕組みを知る(P.191)

【私の人生の岐路⑤】

☆高校進学

☆大学進学

☆就職

☆結婚

☆病気
亡き妻、2007年8月に胃がんと診断される。「寝耳に水」とはこの事である。胃の全摘手術をし、生活するのに食事などで苦労を強いられた。翌年、2008年9月に私が大腸がんと診断される。人工肛門となり身体障害者4級の判定であった。排泄面で大変だが健常者と変わらない生活ができていた。

今までいろんな事を経験していたが、こんなに深く心に衝撃が走ったのは生まれて初めてのことである。自分のことより亡き妻のことが日々心配でならなかった。自分の時も告知されたときは、頭の中が真っ白になったが、亡き妻の時ほどではなかった。その違いは死の宣告である。亡き妻の場合は客観的な資料を見せられて、生存率10%と宣告された。私の場合はなかった。

☆死別

☆還暦(新たな出会い)

 

まわりの人の「宿命と運命」を観察する(P.189)

【私の人生の岐路④】

☆高校進学

☆大学進学

☆就職

☆結婚
私のまわりの環境が結婚を早めた。

この時代、同棲が流行った。と云うより友達3組がそうであったので、そう思ったかもしれない。内一組が、大学4年で子どもが一人いた。その友達は卒業と同時に離婚し新たな家庭を築いた。また違う友達は、卒業を待たずして大学4年で結婚した。

私は大学一年から付き合っていた彼女と、就職2年目で正式採用された5月に23歳で結婚した。25歳で子どもが二人いた。憧れた職に就けたので、仕事中心で家庭を顧みなかった。

☆病気

☆死別

☆還暦(新たな出会い)

 

自分の宿命を受け入れる(P.184)

【私の人生の岐路③】

☆高校進学

☆大学進学

☆就職
大学卒業後、母校に挨拶に行った。何かよい情報はないかと、足繁く通った。

4年次の年明けには就職(機械工具問屋の会社)が決まっていた。これも、1973年から1977年まで関西テレビの企画・制作によりフジテレビ系列で放送されたテレビドラマ『どてらい男(やつ)』で影響された。ドラマの話は、大阪の機械工具問屋に丁稚奉公に入った西郷輝彦扮する山下猛造が、商人として才覚を現し立身出世を果たしてゆく物語である。何かすごくかっこよく見え、機械道具は好きで憧れていた職場であった。

しかし、3月中頃過ぎまで、アルバイトをしていた。会社からは出勤の依頼があったが、無理をいって伸ばしていた。もう、『何日には必ず出勤してください』といわれた。それと同時に母校から『隣の学校が空いたから面接に行ってこい』と電話があった。いっちょぉらいのスーツを着て、翌日に面接を上に行った。知人からの紹介ということもあって即採用された。

もちろん、就職が決まっていた会社には、菓子折を持って挨拶に行った。人事部長は快く承諾してくれた。

(『一張羅』は、「いっちょぉら」・「いっちょぉらい」と発音し、どちらも使っていた。意味は、「ただ一つの物・よそ行きの服」ということだ。関西弁?神戸弁?)

☆結婚

☆病気

☆死別

☆還暦(新たな出会い)

 

両親の人生を見てから、自分を振り返る(P.184)

私は父親の存在を知らない。女性がそれなりの時期に来ると子を授かると小学生まで思っていた。事実、私に父親ができたのが小学校2年生の時だった。

『何であんな大きな鉄が海に浮かぶんだ、空を飛ぶんだ』といつも言ってる母だった。そんな母親だが、『自分の命をかけてでも子を育てた』。そんな母の意見は必ず聞き、何を子に教えてるのかしっかり言葉の裏に隠れてる意味を理解すること。これは私が結婚して、妻が子を育てる姿を見て、子が大きくなったときに感じた。

【私の人生の岐路②】

☆高校進学
兵庫県方式の入試ではなかったら・・・と思ったこともあったが。
報徳学園を選べる環境下にあったことに感謝する。

☆大学進学
高校のクラブ活動で三カ年間団体優勝をすることができた。恵まれた環境であった。そのお陰で大学を数校選ぶことができた。選択は安易に私にとって一番条件の良い大学を選んだ。一年間寮生活であったが苦になることはなく、仲間がたくさんできたのでよかった。大学二年目の生活は、自分で行動を起こし進まなければならなかった。ただ、自分一人で行動することはあまりなかった。四六時中誰かと一緒だった。

大学4年生(4年目)でアルバイトが中心の生活になっていた。夏休み短期水泳教室での子どもとの出会いで、自分の方向がはっきりと見えた。(2月28日の投稿)

 

☆就職

☆結婚

☆病気

☆死別

☆還暦(新たな出会い)