新元号発表 「令和」

「令和(れいわ)」5月改元 初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ 国書から初 万葉集由来
神戸新聞(2019/04/02 火曜日 朝刊)

 政府は1日の臨時閣議で、新たな元号を「令和(れいわ)」と決定した。5月1日の皇太子さまの新天皇即位に合わせ、同日午前0時に元号が平成から改まる。現存する日本最古の歌集である「万葉集」が由来で、歌人の大伴旅人(おおとものたびと)の漢文から引用した。確認できる限り、日本の元号の典拠が日本古典(国書)となるのは初めて。政府は「令和」の考案者を公表せず、安倍晋三首相は決定過程に関する公文書を30年間は非公開とする方針を表明した。菅義偉官房長官が記者会見で、墨書された新元号を発表。首相も会見して談話を読み上げた。(時事)

首相は「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継ぎ、日本人がそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたいとの願いを込めた」と説明した。
「万葉集」の「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」を典拠とした。考案者は公表しない。政府は令和を含む六つの原案を提示したが、選に漏れた候補も明らかにしない。6案の由来の内訳は、国書と中国古典(漢籍)が半々とみられる。関係者によると、日本書紀を典拠とする案もあった。
過去の元号に「令」の字が使われたことはなく、政府関係者によると「令和」が候補となったこともないとみられる。新元号は645年の「大化」以来248番目。これまで日本の元号の由来は確認できる限り全て漢籍だった。
政府は3月14日、国文学、漢文学などを専門とする複数の学者に新元号の考案を正式に依頼。菅長官が六つの原案に絞り込み、有識者による「元号に関する懇談会」と衆参両院正副議長に相次ぎ提示し、意見を聴いた。全閣僚会議で首相に一任し、臨時閣議で新元号を定める政令を決定した。政府関係者によると、令和への異論は出なかった。
発表直前に天皇陛下と皇太子さまに伝えられた。政令は直ちに陛下が署名して官報に掲載、公布された。(時事)

▼「令」清らか「和」まるく

新元号「令和(れいわ)」の出典は現存最古の歌集「万葉集」。基になった一節を探ると、中国の文学に親しみながら自然をめでた当時の貴人たちの文化的な暮らしぶりが浮かび上がる。一方で、さまざまな身分の人々の言葉を収めた歌集によったことを歓迎する声も上がった。
万葉集巻5の一節。梅見をしながらの宴会で詠まれた32首の和歌の前に置かれた漢文の序文「初春令月、気淑風和」から「令和」の2文字が取られた。「令」の字には「よい」「清らかで美しい」といった意味も含まれ、「和」は「まるくまとまった状態」を意味する。
730(天平2)年、(旧暦の)正月13日、大宰府(福岡県)の大伴旅人の家で宴会が開かれた。この部分を現代語訳すると次の通り。「折しも、初春の佳(よ)き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている」(角川ソフィア文庫版、伊藤博訳注より)。「佳人」とは美しい人のこと。
8世紀初めには律令(りつりょう)制度が確立した。中国の進んだ文化の影響を受けた高度な貴族文化が育まれ、中国に倣って国史の編さんも進められた。一方、梅見の宴会が行われた後の時代には、地方での反乱や飢饉(ききん)、疫病などが相次ぎ、天皇が都を転々とする混乱も続いた。
日本の古典を典拠とする元号は記録に残る限り初めてとされる一方で、中国文学の影響もうかがえる。「初春令月―」は古代中国の書家、王羲之の「蘭亭序」の詩の序文などを模したとされる。
歌人の岡野弘彦さんは「元々は中国の言葉であり中国の字ですが、日本の書物の中で日本人が使ってきた。その言葉の中から選び出したことには意味がある」と好感を抱いている。(共同)

〈万葉集〉現存する日本最古の歌集。全20巻、約4500首の歌が収録されている。7~8世紀後半に編さんされたとされ、歌は漢字の音を借用した「万葉仮名」を用いて書かれた。天皇や貴族だけでなく、農民など幅広い階層の人々が詠んだ歌がある。編者は不明だが、奈良時代の歌人大伴家持が深く関わったとされる。(時事)

神戸新聞(2019/04/02 火曜日 朝刊)

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