おわりにーーーー人生の目的の先にあるもの(P.205)

お金がなくても、才能がなくても、人脈がなくても、手に入るのが人生の目的です。

そのためには、社会の価値観から脱し、本当に自分にとって大切なものを見つけてください。世界中の人が何と言っても、あなたにとって大切なものです。

それは、自分自身に対する好奇心から始まります。(P.206 L.5~L.8)

 

 

最後に【私の人生の岐路】を再投稿+αします。

☆小学二年生
新しいお父ちゃんができた。嬉しかった。でも、しばらくはおばあちゃんの家で、好き勝手に暮らした。

そして小二で市電通学した。

想い出:市電に乗り慣れていたので、母が作ったお弁当を持って、父の会社へ届けに行ったが、乗り間違えたと思い途中でおりた。間違っていなかった。次の電車に乗るお金はもう無い。歩いて父の会社まで行った。2~3時間は掛かったと思う。でも、今になってよく頑張ったと思う。この時に確信があった。『このまま歩いて行くと必ず着く!』

☆高校進学
中学のクラブ活動顧問に相談した。『県立の工業高校に行きたいのです。水泳部もありました』。顧問は『兵庫県で一番最低の水泳部です』。私は『そんなこと言うなら、兵庫県で一番水泳部が強いところはどこですか』。顧問は『報徳学園です』。

経済的に報徳学園を選べる環境下にあったことに感謝する。

☆大学進学
高校のクラブ活動で三カ年間団体優勝をすることができた。恵まれた環境であった。そのお陰で大学を数校選ぶことができた。選択は安易に私にとって一番条件の良い大学を選んだ。一年間寮生活であったが苦になることはなく、仲間がたくさんできたのでよかった。大学二年目の生活は、自分で行動を起こし進まなければならなかった。ただ、自分一人で行動することはあまりなかった。四六時中誰かと一緒だった。

大学4年生(4年目)でアルバイトが中心の生活になっていた。夏休み短期水泳教室での子どもとの出会いで、自分の方向がはっきりと見えた。

☆就職
大学卒業後、母校に挨拶に行った。何かよい情報はないかと、足繁く通った。

4年次の年明けには就職(機械工具問屋の会社)が決まっていた。しかし、3月中頃過ぎまで、アルバイトをしていた。会社からは出勤の依頼があったが、無理をいって伸ばしていた。もう、『何日には必ず出勤してください』といわれた。それと同時に母校から『隣の学校が空いたから面接に行ってこい』と電話があった。いっちょぉらいのスーツを着て、翌日に面接を上に行った。知人からの紹介ということもあって即採用された。

もちろん、就職が決まっていた会社には、菓子折を持って挨拶に行った。人事部長は快く承諾してくれた。

☆結婚
私のまわりの環境が結婚を早めた。

この時代、同棲が流行った。と云うより友達3組がそうであったので、そう思ったかもしれない。内一組が、大学4年で子どもが一人いた。その友達は卒業と同時に離婚し新たな家庭を築いた。また違う友達は、卒業を待たずして大学4年で結婚した。

私は大学一年から付き合っていた彼女と、就職2年目で正式採用された5月に23歳で結婚した。25歳で子どもが二人いた。憧れた職に就けたので、仕事中心で家庭を顧みなかった。

☆病気
亡き妻、2007年8月に胃がんと診断される。「寝耳に水」とはこの事である。胃の全摘手術をし、生活するのに食事などで苦労を強いられた。

翌年、2008年9月に私が大腸がんと診断される。人工肛門となり身体障害者4級の判定であった。排泄面で大変だが健常者と変わらない生活ができていた。

今までいろんな事を経験していたが、こんなに深く心に衝撃が走ったのは生まれて初めてのことである。自分のことより亡き妻のことが日々心配でならなかった。自分の時も告知されたときは、頭の中が真っ白になったが、亡き妻の時ほどではなかった。その違いは死の宣告である。亡き妻の場合は客観的な資料を見せられて、生存率10%と宣告された。私の場合はなかった。

☆死別
2007年8月に亡き妻は胃がんと診断され、なおかつ、先5年の生存率が10%と宣告された。私は2011年3月をもって36年間勤めた職場を、亡き妻との生活を優先し、定年を待たずして2年早く退職した。

2012年12月に妻は私の横で、長い眠りについた。何もかも失った感じだったが、1年と9ヶ月の亡き妻との24時間一緒に寄り添うことができたのは、とても良かった。仕事を続けていれば、時には遅くなることもあっただろうし、亡き妻の一人の時間が多く不安な時を過ごしたのでないかと思う。そう思うと、仕事を辞め亡き妻との時間を過ごすことができる環境を持てたことに感謝する。

☆還暦(新たな出会い)
日本で暮らしても辛い過去がよみがえり、生きる方向を失っていた。2013年9月(3週間)、自分なりに方向性を見つけようとアメリカはニューヨークに行った。次回は3ヶ月ニューヨークに滞在しようと計画を練っていた。何故ニューヨークなのか?人種のるつぼと云われ、多種多様な人々が暮らしている。いろんな価値観がある。新しい自分を見つけるには、もってこいの場所だと思った。

帰国後、10月にベンチャーズ・コピーバンドの演奏会に行った。バンドリーダーから『お宅もギターを弾きますか。一緒に遊びませんか』と声が掛かった。60歳になるオッサンを捕まえて『一緒に遊びませんか』とは、面白い方だ。と思い、そのバンドが演奏しているところへ、後日、追っかけするように出かけていった。

 

☆65歳になった
初めての大舞台それから5年の月日が経った。今では、その方のお世話でバンド活動をさせていただいている。

人生の目的が知らぬ間にできた。これからも人との出会いを大切にしたい。

 

素晴らしい仲間との出会い
これからも大切にしていきたい
小さな町での演奏会

新しい人生を手に入れた、悲しく辛いこともあったが、沢山の方に支えられた自分があります。

 

皆様に感謝です。
『ありがとう!』

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